フレッド・アステア
ふれっどあすてあ
フォト
withジンジャー・ロジャース(2)withバリー・チェイス(2)
tuxedo(2)
プロフィール
生年月日: 1899/05/10
没年月日: 1987/06/22
性別: 男性
出身地: アメリカ/ネブラスカ州オマハ
身長: 175センチ
職業: 役者
その他:
本名はフレデリック・アウステルリッツ。父はオーストリアからの移民、母はアルザス系の人で、一家はフレッドや姉のアデールらが幼い頃から家族楽団を作って全米を巡業していた。アデールに才能があると考えた母は、彼女をニューヨークのダンス学校に入学させ弟のアステアにもダンスを学ばせた。校内でたちまち頭角を現した姉に対し、アステアはそこそこのダンサーだったが、5歳の時には姉と一緒に初舞台を踏んだ。姉弟のダンスの才能を認めた母親は、05年にニューヨークのボードビルに入れて、プロとして活躍させる。 15年には大スター、メアリー・ピックフォードに見出されて、彼女が主演する「こうろぎのファンチョン」に飛び入り参加して映画デビューを果たした。17年には「Over the Top」でブロードウェイ・デビューを果たして絶賛を浴びた2人は、22年の「バンチとジュディ」で主演デビューを飾る。舞台は1年以上のロングランを記録した。2人の人気はイギリスにも飛び火し、イギリスとアメリカを頻繁に往復する生活が続く。貴族たちにも引っ張りだこにされ、ロンドンでチャールズ・キャベンディッシュ候と結婚したアデールは、31年に上演された「バンド・ワゴン」を最後に芸能界を引退してしまう。アステアは生涯この偉大な姉を敬愛した。姉がいてこそ仕事ができていたアステアはたちまち失業の憂き目に遭い、舞台に残るか映画界に入るか迷うが、32年の舞台「Gay Divorce」を最後に製作者デビッド・O・セルズニックの誘いを受けてハリウッド入りを果たす。RKO社と専属契約を交わしたアステアは、MGM社の「ダンシング・レディ」(33)にゲスト出演するが“演技も下手だし踊りも下手”と酷評される。それでもめげず出演した同年のRKO「空中レヴュー時代」(33)で、ジンジャー・ロジャースとコンビを組んでダンス・ナンバー「ザ・カリオカ」を披露、息の合ったダンスで一気に観客の心を掴んだ。この映画の成功によって人気に火がつき、二人は主演スターに昇格。翌34年にはアステア主演の舞台を映画化した初主演作「コンチネンタル」が公開されて大ヒットを記録した。以後、アステアとロジャースはハリウッド史上最高のダンス・コンビと謳われて、それから6年の間に「トップ・ハット」(35)、「踊らん哉」(37)など8本の映画がこの黄金コンビによって生み出された。しかし次第にマンネリ化しだした2人の映画は観客に飽きられ始め、39年の「カッスル夫妻」を最後にコンビを解消。ロジャースと別れたアステアはスタジオを転々としながら、エレノア・パウエル共演の「踊るニュウ・ヨーク」(40) 、リタ・ヘイワースの相手役を務めた「踊る結婚式」(41)と「晴れて今宵は」(42)、ゴルフ仲間のビング・クロスビーと組んだ「スイング・ホテル」(42)と「ブルー・スカイ」(46)、ジーン・ケリーとの唯一の共演作「ジーグフェルド・フォーリーズ」(46)なで華麗なステップを披露。イギリス受けする優雅なスタイルにアメリカ的奔放さを加えた独自の踊りの境地を見出す。ダンサーとして年齢的にピークを過ぎた事を自覚したアステアは46年に引退を宣言。引退後はダンス教室の運営や競走馬の育成に力を入れていたが、48年に怪我をしたケリーのピンチヒッターとして「イースター・パレード」で映画界に復帰し、ジュディ・ガーランドの相手役を見事に務めた。この映画の成功によって出演依頼が相次ぐが、54年に21年連れ添った最愛の妻フィリスを癌で失い悲しみに沈む。悲しみから逃れるかのように映画出演を続けたアステアは、この時期オードリー・ヘプバーンと共演した「パリの恋人」(57)、チャリシーとの再共演を果たした「絹の靴下」(57)といった名作を残している。58年にはアステア主演のテレビのスペシャル・ショー「An Evening with Fred Astaire」が放映され、エミー賞の9部門を獲得した。後年は68年の「ファニアンの虹」を最後にミュージカル映画から去り、ダンス抜きの演技で新境地を開拓する。「タワーリング・インフェルノ」(74)では老詐欺師に扮し、哀愁漂う好演技を披露してアカデミー助演男優賞にノミネートされている。80年には45歳年下のロビン・スミスと再婚、翌81年に公開されたミステリー「ゴースト・ストーリー」が最後の出演作となった。一切の妥協を許さなかった彼は、1時間テレビに出演して踊るだけでもその前に7週間は練習しておかなければ気が済まなかったという。50年にはアカデミー特別賞、81年にはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)の生涯功績賞を受賞。自伝「Steps in Time」も出版している。風邪をこじらせたのが原因で入院し、87年6月22日早朝ロビンと手を握りあったまま帰らぬ人となった。
没年月日: 1987/06/22
性別: 男性
出身地: アメリカ/ネブラスカ州オマハ
身長: 175センチ
職業: 役者
その他:
本名はフレデリック・アウステルリッツ。父はオーストリアからの移民、母はアルザス系の人で、一家はフレッドや姉のアデールらが幼い頃から家族楽団を作って全米を巡業していた。アデールに才能があると考えた母は、彼女をニューヨークのダンス学校に入学させ弟のアステアにもダンスを学ばせた。校内でたちまち頭角を現した姉に対し、アステアはそこそこのダンサーだったが、5歳の時には姉と一緒に初舞台を踏んだ。姉弟のダンスの才能を認めた母親は、05年にニューヨークのボードビルに入れて、プロとして活躍させる。 15年には大スター、メアリー・ピックフォードに見出されて、彼女が主演する「こうろぎのファンチョン」に飛び入り参加して映画デビューを果たした。17年には「Over the Top」でブロードウェイ・デビューを果たして絶賛を浴びた2人は、22年の「バンチとジュディ」で主演デビューを飾る。舞台は1年以上のロングランを記録した。2人の人気はイギリスにも飛び火し、イギリスとアメリカを頻繁に往復する生活が続く。貴族たちにも引っ張りだこにされ、ロンドンでチャールズ・キャベンディッシュ候と結婚したアデールは、31年に上演された「バンド・ワゴン」を最後に芸能界を引退してしまう。アステアは生涯この偉大な姉を敬愛した。姉がいてこそ仕事ができていたアステアはたちまち失業の憂き目に遭い、舞台に残るか映画界に入るか迷うが、32年の舞台「Gay Divorce」を最後に製作者デビッド・O・セルズニックの誘いを受けてハリウッド入りを果たす。RKO社と専属契約を交わしたアステアは、MGM社の「ダンシング・レディ」(33)にゲスト出演するが“演技も下手だし踊りも下手”と酷評される。それでもめげず出演した同年のRKO「空中レヴュー時代」(33)で、ジンジャー・ロジャースとコンビを組んでダンス・ナンバー「ザ・カリオカ」を披露、息の合ったダンスで一気に観客の心を掴んだ。この映画の成功によって人気に火がつき、二人は主演スターに昇格。翌34年にはアステア主演の舞台を映画化した初主演作「コンチネンタル」が公開されて大ヒットを記録した。以後、アステアとロジャースはハリウッド史上最高のダンス・コンビと謳われて、それから6年の間に「トップ・ハット」(35)、「踊らん哉」(37)など8本の映画がこの黄金コンビによって生み出された。しかし次第にマンネリ化しだした2人の映画は観客に飽きられ始め、39年の「カッスル夫妻」を最後にコンビを解消。ロジャースと別れたアステアはスタジオを転々としながら、エレノア・パウエル共演の「踊るニュウ・ヨーク」(40) 、リタ・ヘイワースの相手役を務めた「踊る結婚式」(41)と「晴れて今宵は」(42)、ゴルフ仲間のビング・クロスビーと組んだ「スイング・ホテル」(42)と「ブルー・スカイ」(46)、ジーン・ケリーとの唯一の共演作「ジーグフェルド・フォーリーズ」(46)なで華麗なステップを披露。イギリス受けする優雅なスタイルにアメリカ的奔放さを加えた独自の踊りの境地を見出す。ダンサーとして年齢的にピークを過ぎた事を自覚したアステアは46年に引退を宣言。引退後はダンス教室の運営や競走馬の育成に力を入れていたが、48年に怪我をしたケリーのピンチヒッターとして「イースター・パレード」で映画界に復帰し、ジュディ・ガーランドの相手役を見事に務めた。この映画の成功によって出演依頼が相次ぐが、54年に21年連れ添った最愛の妻フィリスを癌で失い悲しみに沈む。悲しみから逃れるかのように映画出演を続けたアステアは、この時期オードリー・ヘプバーンと共演した「パリの恋人」(57)、チャリシーとの再共演を果たした「絹の靴下」(57)といった名作を残している。58年にはアステア主演のテレビのスペシャル・ショー「An Evening with Fred Astaire」が放映され、エミー賞の9部門を獲得した。後年は68年の「ファニアンの虹」を最後にミュージカル映画から去り、ダンス抜きの演技で新境地を開拓する。「タワーリング・インフェルノ」(74)では老詐欺師に扮し、哀愁漂う好演技を披露してアカデミー助演男優賞にノミネートされている。80年には45歳年下のロビン・スミスと再婚、翌81年に公開されたミステリー「ゴースト・ストーリー」が最後の出演作となった。一切の妥協を許さなかった彼は、1時間テレビに出演して踊るだけでもその前に7週間は練習しておかなければ気が済まなかったという。50年にはアカデミー特別賞、81年にはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)の生涯功績賞を受賞。自伝「Steps in Time」も出版している。風邪をこじらせたのが原因で入院し、87年6月22日早朝ロビンと手を握りあったまま帰らぬ人となった。
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